カテゴリー別アーカイブ: 武士道精神・特攻隊

(ニュース記事)15歳少年、少女3人を銃弾から守って死亡 米テネシー州

CNN.co.jp : 15歳少年、少女3人を銃弾から守って死亡 米テネシー州 – (1/2)
http://www.cnn.co.jp/usa/35075254.html

(CNN) 米テネシー州でギャング集団同士の銃撃に少女3人が巻き込まれそうになり、15歳の少年が身を投げ出して少女たちを救う出来事があった。少年は銃弾を浴びて死亡した。

CNN系列局のWATEによると、銃撃事件は17日夕、同州ノックスビルで起きた。大勢の人が集まっていた現場で数人の男たちが無差別に発砲。学校でアメリカンフットボール部に所属していたザビオン・ドブソンさんは、とっさに飛び出して3人の少女に覆いかぶさり、自分が銃弾を浴びた。少女3人にけがはなかった。

警察の調べによると、容疑者の男3人は犯罪組織の関係者で、学校の不良グループの集団を狙って発砲したと見られる。容疑者のうち1人は撃たれて死亡、2人は逮捕され、警察が動機などを調べている。

死亡したドブソンさんは地元のハイスクールに通う2年生。アメフト部の監督によると、面倒見が良く友人に慕われる存在で、教員の間でも人気があった。将来の夢はアメフトの選手かコーチになることだった。

18日夕に営まれた追悼集会には数十人が参列し、ドブソンさんの背番号「24」をろうそくで描いてその死を悼んだ。

事件現場で一緒にいたドブソンさんの兄弟のザックさんは、「ポーチで彼を見付けて抱き上げた。彼は僕の腕の中で死んでいた」と振り返った。

友人のジェイリン・ポージーさんは、「彼が進んでほかの人たちを守ったのはいいことだった。でもそのために自分の命を犠牲にしなければならなかったのは悲しい」と嘆く。

ノックスビルでは事件当日の17日夜にかけて3件の銃撃事件が相次いでおり、警察が関係を調べている。

ドブソンさんが救った少女のうち1人はCNN系列局WVLTの取材に対し、「もしザビオンがいなければ、彼がポーチから飛び出して来てくれなかったら、多分私たちが撃たれていた」と話した。

もう1人の少女は、銃撃がやんだので、もう起き上がって大丈夫とドブソンさんに声をかけたが動かなかったと振り返る。ドブソンさんは頭を撃たれていたという。

オバマ大統領は20日、ツイッターで事件に触れ、「ザビオン・ドブソンさんは3人の友人を銃撃から救って死んだ。15歳の英雄だった。私たちは何を言い訳に行動しないのか」と問いかけている。

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(ニュース記事)日中戦争2つの真実 侵略戦争ではなく人道的、道義的介入だ

【中国の本性】日中戦争2つの真実 侵略戦争ではなく人道的、道義的介入だ (1/2ページ) – 政治・社会 – ZAKZAK
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150606/frn1506061530002-n1.htm

 「日中戦争は、中国に対する『侵略戦争』である」とは、戦後、米国と中国、ソ連が決めつけたことである。日本の保守派にも「侵略戦争だった」と思う人は多いようだが、私はテレビの討論会で「中国内戦に対する日本の人道的、道義的介入」だと発言したことがある。

 中国の歴史を振り返ると、満州人の清王朝が1644年に首都を北京に遷(うつ)してから、康煕、雍正、乾隆の3帝が約130年間、有史以来初めて人頭税を減免した。最も幸せな時代だったとも言われているが、その後、人口が急増して資源の争奪戦が激化し、自然と社会環境は悪化し続けた。

 18世紀末の「白蓮教徒(びゃくれんきょうと)の乱」から、20世紀の「文化大革命」まで、中国では事実上、約180年間も内戦が続いた。「太平天国の乱」(1851年)では人口の5分の1、19世紀末の「回乱」(=イスラム教徒の蜂起)では人口の10分の1が消えた。1911年の辛亥革命後、清帝国が崩壊して中華民国の時代に入ると、内戦はさらに激化した。中華民国の評論家、林語堂の説によれば、国民党と共産党が戦った20世紀の「国共内戦」でも「3000万人が消えた」という。

 日中戦争について、中国は「八年抗戦」と名付けているが、国民党と共産党のプロパガンダに振り回されてはならない。日中戦争の真実については、少なくとも以下の2つを指摘しなければならない。

 (1)日本が中国内戦の泥沼に引きずり込まれてから起きた本格的戦闘は、盧溝橋事件(1937年)から、武漢陥落(38年)までの1年余に過ぎない。その後、日本の支援を得た北京政府や各政府は、中国の近代化に努めた。道路や鉄道、港湾などのインフラ建設を進め、内戦で荒廃した農村を再建し、国民を飢饉から救済した。医療・衛生環境を整備して疫病を退治した。伝統文化を保存し、学校を建設した。治安を維持し、衰亡の危機にあった中華世界を再生させた。逆に、インフラなどを破壊したのは、国民党と共産党の武装ゲリラ勢力である。

 (2)40年代に入ってからの日中戦争は、実質的には北京政府をはじめ、各政府を統合した南京、重慶、延安の3政府による、日本と米国、ソ連の代理戦争だった。日中戦争の背後で、南京政府の置かれた地域では経済と治安が非常に安定していた。戦後たった7カ月で米価が500倍近くも上がり、ハイパーインフレになって国共内戦が再燃した。中国を主軸とする代理戦争は、辛亥革命(1911年)からはじまり、戦後の国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム、カンボジア内戦など延々と半世紀以上にもわたる。

 日中戦争が、米ソ以外に日英独も加えたアジアの代理戦争であるという20世紀の歴史を見逃しては、本質を見失ってしまう。(黄文雄)

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(ニュース記事)「南京大虐殺30万人説」 日本にも歴史〝ねじ曲げ〟放置した重い責任 元兵士証言から浮かぶ歴史の真実

【歴史戦WEST】「南京大虐殺30万人説」 日本にも歴史〝ねじ曲げ〟放置した重い責任 元兵士証言から浮かぶ歴史の真実(1/6ページ) – 産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/150327/wst1503270007-n1.html

 昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した日本軍が、約6週間から2カ月間にわたって多数の敗残兵や住民らを殺害したとされる「南京事件」。犠牲者の規模や事件の存否を含めて論争があるが、中国は犠牲者数を30万人と主張、日本軍の〝蛮行〟として声高に喧伝している。しかし、陥落直後の南京にいた日本軍の元兵士に取材すると、「南京大虐殺30万人説」とは異なる様相が浮かび上がる。「陥落後の南京は和やかだった」「虐殺はでっち上げ」-。「反日」という政治的思惑を帯びた中国の攻勢に負けず、元兵士らの証言をはじめ当時の史料や状況を冷静に検証し、歪曲(わいきょく)・誇張に満ちた歴史を是正する必要がある。「日本を取り戻す」を旗印に政権を奪還した安倍晋三首相は2月、南京事件に対する海外からの誤った批判に正当な理解を得るよう発信していくと明言した。この「歴史戦」に敗れれば、日本の名誉は永遠に汚され続ける。(歴史戦WEST取材班)

「城内に遺体はなかった」

 「城内は空っぽでした」。昭和12年12月13日の南京陥落後、南京城に入った城光宣(じょうこうせん)さん(99)に昨秋、城内の様子を尋ねた際の第一声だ。

 兵士はおろか、住民の姿さえいない無人地帯だったというのだ。住民たちは、欧米人らでつくる国際委員会が城内に設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。

 城さんは熊本で編成された陸軍第6師団歩兵第47連隊に所属する獣医務曹長。第6師団も加わった南京攻略戦の戦闘には直接参加していないが、戦闘部隊と行動をともにし、間近で様子を見てきた。南京は他地域と同様に外敵の侵入を防ぐ目的で周囲を堅固な城壁で囲まれていた。城内の面積は約40平方キロメートルと広大だった。

 12年12月10日に始まった南京総攻撃。第6師団は南京城南側から攻撃に加わった。「砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ、壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」

 城さんは77年前の様子を克明に語った。城内で中国軍の遺体を目撃したかどうか尋ねると、首を横に振って否定した。それでも上海から南京まで進軍する途中では道端で中国軍の遺体を目にしたという。「そりゃ交戦しながら進むけん、こっちもあっちにも遺体はありました」

 南京への進軍途中にも「日本軍は虐殺行為を働いた」とも言われるが、城さんは「女や子供、年寄りの遺体はみたことはなか」と明確に否定した。

 南京攻略時の師団長は戦後の南京軍事法廷で、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。虐殺はあったのか否か。同様の質問を繰り返したが城さんは憤りを交え、同じ答えを繰り返した。

 「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」

日本兵相手に商売も

 《日本軍は南京占領直後から1カ月で2万の強姦事件を起こし、6週間で20万人を虐殺し、暴行や略奪の限りを尽くした》

 戦後の東京裁判判決はこう認定した。さらにこうも断定した。

 《何ら口実もないのに中国人男女や子供少なくとも1万2千人を最初の2、3日で殺害し、死体は大通りに散乱した》

 元兵士が見た南京はどんな様子だったのか。

 「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きるという印象でした」。占領後最初の6週間の一時期を城内で過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹、原田要さん(98)はこう振り返った。

 陥落後、城内の飛行場に降り立った原田さんの印象に残るのは、日本兵を相手に露店で商売を始めるなど日常の生活を営む住民らの姿だった。

 この証言には重要なポイントがある。陥落後間もない城内では、すでに住民による露店が立っていたという点だ。

 南京攻略戦で城内に残った住民らは一時、非武装中立地帯の「安全区」に逃げ込んだが、日がたつにつれ安全区から出てきて平穏さを取り戻している。原田さんの目にはそう映った。

 中国が喧伝する「南京大虐殺30万人説」が事実ならば、当時は城内で日本軍による住民への虐殺や暴行、強姦が繰り広げられていたはず。そんな阿鼻叫喚の現場で、和やかに敵兵相手に商売をすることがあり得るだろうか。

 平成19年12月、東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」でも、8人の元将兵が同様の証言をしている。

 「敵兵は1人もおらず、城内はガランとして人影がなかった。100メートルほど行くと、1人の老婆が紙で作った手製の日の丸でわれわれを歓迎してくれた」(12年12月14日に入城し、すぐに城外で宿営した元陸軍第6師団歩兵第13連隊の伍長、古沢智氏)

 「入城して2~3日後、住民の姿をみかけるようになり、時計の修理のため時計屋を訪れた」「3回ほどサイドカーで城内をくまなく見て回ったが、遺体や虐殺の痕跡は目にしなかった」(12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清氏)

 「12月14日ごろには(城内に)散髪屋や立ち食いそば屋など、早くも住民が商売を始めていた」(安全区で掃討・警備を担当した元陸軍第9師団歩兵第7連隊の伍長、喜多留治氏)

日本兵を悩ませた「便衣兵」

 平穏を取り戻した城内でも、日本兵にとって掃討すべき〝脅威〟があった。民間人に偽装し、隠れ戦闘員として日本兵らを襲った中国の「便衣兵」だ。

 3等航空兵曹の原田さんは、便衣兵を処刑する場面を見たことがあった。

 休暇で南京城の北を流れる長江(揚子江)の河畔に行ったとき、日本陸軍の兵士らがトラックに乗せてきた中国人の男10人ほどを銃剣で突いたりした。川の中に逃げ込んで撃たれたり、泣きながら命ごいしたりする男もいた。

 原田さんは言う。「虐殺と言われれば虐殺かもしれない。でも便衣兵はゲリラだ。日本兵がやられる可能性もあった」

 当時、日本軍は南京だけでなく、各地で便衣兵に悩まされた。堺市在住の元海寿祐さん(51)は、日中戦争で出征した父、寿一さん=平成2年に72歳で死去=から便衣兵に出くわした体験談を聞いたことがある。

 寿一さんが出征先で仲間と歩いていて、怪しい中国人の男を呼び止めた。男は便衣兵だった。走りながら腋の下から銃口を向け、仲間が撃たれて負傷した-。

 元海さんは「父は戦場の現実は悲惨なものだと言っていた」と振り返り、南京事件についてこう話した。

 「『大虐殺』で言われるようなことをやればすぐ情報が広まる。(将兵は)処分されるはず、と大虐殺説を否定していた」

「ギャクサツヲ禁ズ」

 「南京大虐殺30万人説」で言及される日本軍の残虐性。しかし、軍には厳しい規律があったという数々の証言もある。

 「十月五日 大隊長注意 リャクダツ、ザンサツ禁ズ」

 昭和12年に日中戦争に参加した元陸軍第5師団歩兵第21連隊の下垣定信さん=平成8年に83歳で死去=が所持していた手帳には、上官からの命令が日付とともに記されている。

 「上官も厳しかったし、軍紀も厳しかった。自分勝手は許されなかった」。生前、下垣さんは長男(75)にこう話したという。南京攻略戦には参加していないが、日中戦争勃発(ぼっぱつ)直後に出征した際の体験談だ。

 北京近郊の河北省のある城内に駐留していたと思われる同年9月2日の記述がある。「将校注意 便衣隊(兵)ニ注意 衛兵務ム者ハ城門出入者ノ身体検査、但婦人ヲ除ク」

 10月1日には、「自ノ銃ヲ以テブタ、ニハトリ等ヲ射殺モ他ニキガイヲオヨボスノオソレアルヲ以テ厳ニ注意ヲ要ス」。

 同月4日は「連隊注意 一、現在地付近ハ住民居存有ルニ付キギャクサツヲ禁ズ…」と記されている。

 長男は「手帳を見ていると、日本軍は決して無秩序な軍隊ではなかった。父も戦後、『南京大虐殺』を否定していた。今の状況は悔しい」と語る。

 中国は毎年12月13日、南京市の南京大虐殺記念館で犠牲者の追悼式典を行ってきたが、習近平政権は昨年、「国家哀悼日」に〝格上げ〟。米国の公立高校の世界史の教科書では、南京事件の犠牲者を「40万人虐殺」と歪曲されていることも明らかになっている。

東京裁判で「自虐史観」すり込まれ

 南京攻略戦は東京裁判で突如として「南京大虐殺」に変貌(へんぼう)した。その後、中国側は「30万人を虐殺した」と世界に向けて喧伝し、今も日本をおとしめる格好の材料としている。日本国内で30万人説を支持する声は極めて少ないものの、「虐殺があった」とする説は多く、数百~20万人と幅がある。事件の存在すらないという「否定説」もある。

 拓殖大の藤岡信勝客員教授は「当時の記録にもあるように一部の非行兵士による犯罪行為はあったが、日本軍が組織的に民間人らを虐殺したということは事実として確認できていない」と語る。

 中国軍が退却時に「敵に糧を与えない」との名目で民家を焼き尽くし、略奪を行う「清野作戦」による被害も多かったと指摘。便衣兵についても「戦闘を放棄した捕虜とは違い、あくまでも戦闘継続中の兵隊だった」と強調する。

 これまでに日本側が戦後の歩みの中で、生存者から聞き取りを行うなどして事実を究明し、「南京大虐殺30万人説」に反論して国際社会にもアピールする機会は何度もあったはずだ。しかし、東京裁判によって日本人にすり込まれた「自虐史観」の影響は強く、積極的な検証や反論の動きは鈍かった。結果として誤った史実が国際社会にも広がっている。

 もはや当時を知る人たちも多くは鬼籍に入り、健在の人でも100歳を目前にしている。藤岡客員教授は言う。

 「歴史のねじ曲げを放置したのは私たち国民、そして政府の責任。戦後70年の今、真摯(しんし)に見つめないと歴史の真実は見えてこない」

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(ニュース記事)元NYタイムズ東京支局長「日本軍の野蛮イメージは虚妄だ」

“和の神髄”について、外国人の目を通して教えられることは少なくない。イギリス人で元「ニューヨーク・タイムズ」東京支局長のヘンリー・S・ストークス氏が、「日本軍から自衛隊に受け継がれた素晴らしきモラル」について語る。

 * * *
 第二次世界大戦に日本が参戦し、アジアの植民地での戦闘が始まったが、日本軍の強さは我が母国のイギリス軍を圧倒するものだった。

 イギリス人にとって最も衝撃的だったのは、大英帝国海軍が誇る「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパレス」という2隻の戦艦が日本の小さな戦闘機による魚雷攻撃で、わずか4時間で撃沈されたことだ。

 日本人を“イエローモンキー”と呼んで憚らない差別主義者だったチャーチル首相は、若くして海軍大臣に就任し、海軍こそ英国の誇りとしていた。それが数時間の戦闘で壊滅させられたのだ。西洋人が有色人種の強さを体感し、恐怖した最初の瞬間であろう。

 当時のイギリス軍は日本人が近眼で飛行機の操縦能力も低いと見くびっていた。しかし、鋭利な角度で飛来してあまりに正確に魚雷を命中させることに驚き、“ドイツ軍のパイロットではないのか?”と乗員らが疑ったほどだった。

 日本の帝国海軍は非常にモラルが高く、統率が取られていた。私が著書『英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄』で指摘したように、「日本軍は野蛮で残虐だ」というイメージは、「東京裁判」などで戦勝国が自分たちの理論で作り上げた虚妄だ。実際の日本軍は規律を守り、マナーも優れていた。

 私は14歳からイギリスで軍事教練を受け、軍隊の本質を知っている。ジャーナリストとして戦後は幾度も横須賀基地などで自衛隊を取材してきたが、非常に礼儀正しく、規範を大切にしている。彼らは戦前の帝国海軍の伝統を受け継いでいると感じている。

 アジアへの日本軍の侵攻は、植民地となったアジア諸国を欧米の帝国主義から解放し、独立に導くものだった。

 ここでも、日本軍の果たした役割は大きい。植民地の人々に軍事訓練や教育を施して集団として統率し、独立への手助けを行なった。こうした発想は欧米の帝国主義国家には全くなかった発想だ。

 日本軍がアジアを占領するために暴走したということが誤りであるとわかる印象的なスピーチを、イギリスが支配していたインドで国民軍の司令官だったチャンドラ・ボースが1943年に来日した際に行なっている。

 そこで彼は「日本がアジアの希望の光だ」とはっきり述べているのだ。彼は日本軍がインド独立のための千載一遇の機会を与えてくれたことに感謝した。これはシンガポールやビルマなどアジア諸国に共通する思いだ。

 日本軍がマレー半島に進攻すると、イギリス軍はなすすべもなく降伏してシンガポールが陥落した。イギリスだけでなく、オランダも含めた西洋の帝国軍が敗れてしまった。

 戦後の「東京裁判」はその怨念を晴らす場となり、アジアの解放を目指した軍人は悉く連合国側の論理で「戦犯」として裁かれた。

 その後の戦後教育でも、日本がなぜ戦わなければならなかったのか、戦争で日本軍が果たした意義などはタブー視された。このため、現代の日本人は当時の日本軍の功績をほとんど知らないままだ。

 しかし、私は希望を感じている。今も続く“占領体制”の呪縛を日本国民が解く日は必ず来ると信じている。

●取材・構成/大木信景(HEW)
※SAPIO2015年2月号

元NYタイムズ東京支局長「日本軍の野蛮イメージは虚妄だ」│NEWSポストセブン
http://www.news-postseven.com/archives/20150126_296290.html

(ニュース記事)戦後70年 「日本人になりたかった」パラオ人が語る日本の“大切なもの”

 〈君が代は 千代に八千代に さざれ石の~…〉

 明快な日本語で「君が代」を歌い上げた94歳になる老女は、続けて「海行かば」を口ずさみ始めた。

 〈海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍~〉

 歌詞の意味は理解しているという。ロース・テロイさん。「テルコ」という日本人名も持ち、「日本人になれるものならなりたかった」と言った。

 「緑の島のお墓」を作詞したアントニア・ウエンティさん(85)は「蛍の光」と「仰げば尊し」を歌って涙を浮かべ、童謡の「浦島太郎」を歌って、「この歌は、『両親がしてはいけないということはやってはいけない。罰が当たるよ』という意味を含んでいる」と言った。

 テロイさんのいとこにイナボ・イナボさん(故人)という男性がいた。元パラオ共和国政府顧問で、生前は、「日本軍と一緒に戦いたかった」と何度も口にしていたという。

 イナボさんは平成7年8月15日、靖国神社での戦没者追悼中央国民集会に参加した際、雑誌のインタビューにこう話している。

 「日本には大切なものが4つあります。天皇陛下と靖国神社と富士山と桜の花です。アメリカ人から『日本は小さな国だけどもルーツ、根っこがあるから強い。それは天皇陛下と富士山と桜だ。それはアメリカにはない』と聞きました」

 「日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。それで日本を尊敬しているわけです。皇室と神社がある限り日本は倒れない。日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています」

 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。

 天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。

Yahoo!ニュース – 戦後70年 「日本人になりたかった」パラオ人が語る日本の“大切なもの” (産経新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150103-00000519-san-soci